序章


 何が起きたのかさえ、わからなかった。
 母上が、私を急に突き飛ばした途端に、母上が・・・ 炎の柱に変わったかと思うと、体中の毛が針のように立ってしまうほど恐ろしい悲鳴を上げて、狂ったように踊りだしたのだ・・・
 私は、ただ恐ろしくて母上から逃げ、小さい体を余計に小さくして、桜の木の大穴に逃げ込んで息を止めていた。
 耳を引き裂くような、女の鋭い狂気の笑い声が、母上に・・・ 炎の柱に向けて、どこからか浴びせられた。
 女の声。その女は、気付かぬうちに母上のすぐ目の前に現れていた。
 女は、美しい顔をしていたが、恐ろしい姿をしていた。
 紅い、炎のような色の髪を持つ、あれは・・・
 見たこともない着物を身に着け、額の十字の傷を割って一本の角を生やしている、あれは・・・!
 『鬼』と呼ばれる者ではなかったか。
 私の肝は、今にもあの鬼女の目の前で、舞を披露してしまいそうなほど、鼓動が激しくなっていた。
 女の鬼は、紅い巻き毛を優雅な仕種で掻き上げると、冷ややかに、母上だった炎の柱を見た。
 その目は、私と同じ、紅い、強い光を放っている。
「所詮は人間か。他愛のない。顔も見れぬままに滅びてしまう・・・」
 そう言うと、女の鬼は右手を上げた。
 それが合図だったのか、母上を包んでいた炎が突然治まった。
 今まで真っ赤だった目の前が、急に紅い光を失った所為で、私の視界は緑色になり、暫く目が自由にならずに私は慌てて両目を擦る。
 やっと目の自由が利くようになった頃、もう、黒い柱になってしまったと思われた母上が、元の姿に戻っていることを知った。
 ただ、身に着けていた着物は、跡形も残さず消え失せている。体をくの字に折り曲げて、母上は倒れた。
 私は、母上の裸体がこんなところで露わにされてしまったことに、激しく動揺する。もとより、女の着物も、かなり露出の高いものだったから、多分その時から動揺はしていたのだろう。
 しかし、母上の裸体の美事さは、女の鬼の美しさともまた別の、艶やかさを放っている。それに気付いた私は、自分の下賎な考えに気付いて、自分を恥じた。
 鬼女は、驚いたような顔をしていた。恐らく女の鬼は、自分の容姿にかなりの自信があったのだろう。母上の美しさに、一瞬言葉を失ったように見えた。
「どういう・・・おつもりなのですか」
 押し殺したような母上の声がした。
 無事だったのだと安堵するのと、今までの母上と違う違和感とが交互に襲ってくる。
 この、胸騒ぎはなんなのだろう。
「私は、こうして人からも鬼からも離れて暮らしていますのに、何故今更、貴方のような方が、私に干渉なさるのですか!」
 母上は、鬼女を睨みつけた。
 私は、母上の厳しい顔など見たことがなかったから、自分が叱られたかのように身を竦ませてしまう。
 しかし、鬼女は母上を馬鹿にしたように見下ろし、鼻で笑った。
「自ら全てを棄てたと云うが、干渉をしているのはどちらだ・・・」
「・・・何が仰りたいのかわかりませんが。私は貴方が何者かもわからないのに、何故私が貴方に干渉などを?」
「私は緋王の妻。そう云えばわかるな。干渉してはいないなどとまだぬけぬけとその口で吐こうものなら、私は今度こそお前を消炭にする」
「あなたが、緋王様の・・・!」
 母上は、明らかに顔色を変えた。母上だけではない、私も息を呑んでいた。
 『緋王』とは、私の父上の名。
 月に一度訪れる、紅い髪に紅い瞳をした、額に十字の傷のある父上。
 私を可愛がってくれる父上の、妻の、鬼女。
 額の傷。・・・では、父上は鬼・・・? 母上は・・・?
「雌豚が」
 鬼女が、侮蔑の念を込めて母上にその言葉を投げつけた。母上は、目を見開いて地面を見つめている。
「この躰か、緋王を狂わせたのは。この躰か、緋王の子を生んだのは。・・・私がどれほどお慕い申し上げても振り返らぬ緋王を手に入れたのは、この躰か!!」
 鬼女は母上の黒髪を掴み、母上の顔を自分の方に向けさせる。
 母上の滑らかな髪が、肩から滑り落ちるのを、私はどこか遠くで起きた事のように見つめていた。
 鬼女は泣いていた。輝きを失わない強い光を放つ、紅い瞳から流れ落ちる涙は、血のように紅いのかと思ったが、濁りはなく透明な色をしている。
 母上もまた、黒い瞳から涙を溢れさせ、少し笑って鬼女を見た。
「謝って、済む事ではありませんね・・・」
「当たり前だ!」
「人は、例え罪と知っていても、罪を犯してしまう生き物であること、あなたは知っている筈です・・・」
「・・・我々鬼は、人を裁くことを許された高貴な存在だ。例えこの手が血に染まろうが関係ない、鬼は、罪を重ねる人に対して審判を下す者、そうする事で人の罪を浄化させる者。私が、お前の罪を裁く・・・!」
 鬼女の炎のような紅い瞳が、一瞬冴えた氷のように輝いたことに気付いて、私は寒くて、自分の体を抱きしめた。
 母上が、いつも悲しそうな顔をしていたのを知っている。でも、今の母上は、いつもよりももっと悲しそうで、寂しそうな顔をしているような気がする。
「罪であっても、私は緋王様とともにいたかった。人と鬼とが通いあうなどと、してはいけないと、ずっと気付いていた。私は人で、緋王様は鬼だという事は、それを最初から私達に突きつけていたのに。それでも、私は緋王様と共にありたくて、私は罪と知りつつ、鬼と人との間に子を設けて、緋王様を縛った。
 あなたは優しい方です、このように欲に溺れた汚らわしい私を、憎い筈の私のこの魂を、浄化してくださるというのですね、この私の罪を、許して下さるというのですね・・・ 先ほど救っていただいた命です、奪われても構いません。どうせもう、契約の切れるのは時間の問題でしたから・・・」
「何だと・・・」
 鬼女は、憎しみに満ちた顔を、少しだけ緩めた。
「まさか、お前の契約期限が今日だから、緋王は、私にそのことを伝えたというのか・・・ そうまでして、お前を、緋王は守ろうとしていたと・・・」
 鬼女は、母上の髪を掴んでいた手を離して、母上に背を向けた。
 鬼女の方が、小刻みに震えていた。その目には、まだ涙が宿っている。先ほどのものとは違う、ひどく悲しそうな涙。
 途端に、母上が再び炎に包まれた。先ほどの炎とは違う、蒼い炎だった。
 母上は、今度は悲鳴を上げる事はなかった。
「知らなかったとはいえ、私があなたにした仕打ちは、許されるものではないけれど・・・ ごめんなさい・・・ でも、あの子に罪はないの、あの子だけは、見逃して・・・」
 母上の幽かな声を聞いて、鬼女は再び母上に顔を向けた。
「お前・・・ その為に契約を・・・ 自分の子に降りかかる災厄、罪全てを請け負う覚悟で、緋王と契約を・・・」
 蒼い母上を見て、鬼女は母上を抱き起こした。
 しかし、母上の姿は鬼女に抱かれた途端に、跡形も残さず消え去ってしまった。
 殺されたのだ。先程と同じように、炎で母上を、あの鬼女が、殺したのだ。
 嘘だ。
 何故、母上が。
 何故、母上が殺されねばならないのか。
 沸きあがる憎しみを抑えることもできず、怒りで体が熱くなるのを感じる。
 しかしそれ以上に私にあったのは、『生きたい』という願いから来る、鬼女への恐怖。
 今の私に、どんなに憎しみを募らせた所で、一体あの鬼女に何ができるというのか・・・
 その思いに至り、自分の無力さに絶望が押し寄せる。
 私に出来ることなど、何も、ないのだ・・・
 鬼女は、そこに暫く立ち尽くしていた。
「子供は、どこに・・・?」
 鬼女の呟くような、うわ言のような言葉を聞いて、私の胸が、どくどくと早鐘を打ち始めた。
 見つかったら殺される、母上のように殺される、私はまだ死にたくない、死にたくない、死にたくない・・・!!!
 鬼女は、私のいる桜の大穴を、一瞬、鋭い目で見た。
 姿は隠れている筈。ここは真っ暗で、向こうからは見えない筈。
 それでも。
 吐きそうだ。恐怖で、肝が躰の中で暴れ回って、私の体から飛び出してしまう、息をすれば見つかる、でも息が苦しい、私は、私は、あの鬼女に殺されるのか、そんなのは、嫌だ・・・!!!!
 暫く、鬼女はこちらを見ていた。否、『こちら』ではなく、私を見据えていた。
 目が合っていると思った。
 間違いなく、私を視線で捉えていた。
 射殺される。眼力によって、私は殺されてしまうと思った。
 なのに、鬼女は私から目を逸らすと、急に視界から消えてしまった。
 まるで、霞に包まれるように。
 それに驚くことよりも先ず、私は恐怖から逃れた事によって急に躰の力が抜けてしまう。
 やっと、自分の周りで起きた出来事が、だんだん理解出来てきた。
 殺された母上。
 嫉妬に燃えていただけの鬼女。
 ずっと、私に自分が何者であるかを隠していた、ずるい父上。
 怖くて、息をするのも忘れて、桜の大樹の大穴に隠れていただけの、何もできなかった私・・・
 堪らなく自分を、自分を取り囲んでいる全ての運命の全てを憎んでしまいたい程狂おしい何かが、私の体を駆け巡っていた。
 母上が、心から笑うのを見たことがなかった気がする。笑っても、いつも翳りがあった気がする。どんな時でさえ・・・
 それは、他の誰でもない、私の所為だ。
 鬼である父上と、人である母上との間に生まれた私は、存在してはいけなかったのだ。
 母上が、人の里に住まずに、こんな山奥で暮らすのは、存在してはいけない私を隠す為に・・・
 私は、存在してはいけない・・・?
 人でも鬼でもない私は、人でも鬼でもある私は、一体、何なのだろうか?
 母上を殺した、あの鬼女が憎い。
 でも、母上が居ながら、あの鬼女とも通っていた父上が、もっと憎かった。
 私のようなものを創っておきながら、まだ、のうのうと私の前に顔を出していた、父上を許せない。
 そして、自分に流れる、この半分の鬼の血が・・・!!
 私は鬼を憎む。
 鬼が人からどんなに疎まれ、畏れられているかは知らない。
 それでも鬼を憎む。
 私は鬼を許さない。
 あの鬼女も、父上も、この、自分に流れる鬼の血も・・・ 全ての鬼を許さない!!
 躰が、火のように熱くなった。
 これが鬼の、忌むべき、憎むべき力なのだろうか。
 躰が熱い。
 桜の木が、紅い光を強く放ちながら、燃えていた。
 母上の死体がない。
 母上の好きだった桜。
 母上の名前だった『桜』・・・
 この桜は母上の亡骸だ。母上の生きた証。
 私が人でも鬼でもなくなった証・・・
 私は魔道に堕ちる。
 この炎の鬼の力、例え半分の力でも私は鬼を滅ぼしてみせる。
 絶対に、鬼などというものを、蔓延らせない為に。
 私のような者を、蔓延らせない為に・・・
 私は涙を流しながら『桜』の亡骸、桜の灰を埋めた。
「悲痛な覚悟。まだ7歳にも満たぬその身に負うのは苦しく辛い。それでも良いと言うのなら、力を貸してやろうか」
 私が母上の桜の灰を地中に埋め終わった時、私の後ろで男の声がした。
 涙など復讐に必要ない。
 そんなことはわかっていたから、男に泣いていたと悟られるのが嫌で、私は涙を拭いきってから後ろを振り向いた。
 息を呑んでしまった。
 今見た、紅い髪の女とも違う、また別の鬼が、そこには居たからだ。
 今憎いと思っていたものが、急に畏怖の念を抱かずにはいられない強大な存在に変わっていることが、信じられなかった。
 男は背がとても高かったから、小さな私にとってはそれだけで畏怖の対象ではあったのかも知れないが、その鬼の神々しさは、何にも変え難いものがあった。
 男の鬼は、金色だった。
 髪は太陽の光を吸い込んで輝きを放つ黄金色。
 瞳には金を含んだ翡翠が埋め込まれているようだった。
 異様なのはそれだけではない。
 背から三種類の羽根が生えていたのだった。
 大きな白い翼が一対、透明な蜉蝣のような翅が三対、黄金と深紅が交じり合う羽根を持つ翼が一対。
 目に焼きつくほど、眩かった。
 しかし、鬼なのに・・・ 額の十字の傷もなければ、角も生えてはいない。
 そのかわり、額には何かの徴か、小さい丸の上下に菱形を象った痣のようなものがあった。
 鬼の特徴とは、少し違っているようだが・・・
「俺は鬼ではないよ。人でもないがな」
 男は少し笑いながらそう言った。
 『鬼ではない』という言葉で、私の警戒心は少しだけ薄らぐ。
 しかし、この男は私の心を読んだのではないだろうか? 何故私の思ったことが・・・
「あんまり大きな声で考えるから、自然と聞こえて来るんだよ。俺がここに吸い寄せられたのも多分、そういうことなんだろう」
 男は、私の考えた事に答え、しゃがみ込んで私の頭を撫でた。
「強い憎しみ」
 男は、私の顔を覗き込んだ。もう、男の顔に笑みは宿ってはいない。
 憎しみの心が負の感情だという事くらいはわかる。だから私は、その男に裁かれるのではないかと思った。
 鬼は、人を、裁くというのなら・・・ 負の感情を持った私を裁くと思ったのだ。
「お前、人の話し聞いてないな〜」
 男は苦笑いをする。
「怖かったか? この姿では」
 そう言うと、男の背から生えていた三種の翼は背に吸い込まれるように消え去った。
 それどころか、髪も瞳も漆黒になる。
 そうなると、男はただの『人』にしか見えなくなった。
 否、元々初めに会った時に翼のせいでか上半身が裸身であり、それは元々異様ではあったのだが、先ほどまでの光を放つ姿よりも、随分と落ち着いて見えた。
「俺は、裁く者ではない。魔を、悪を、囁く者だ。お前は魔道に落ちると誓ったのではないのか?」
 神々しさを失った男は、しかし、嘘偽りを許さない、美しさゆえに備わった凄味を以って、私を見据える。
 こんなことを私に聞かなくても、男には私の心が筒抜けになっていた筈なのに、男は、私に答えることを望んでいた。
 私は、その有無を言わさぬ迫力に呑まれ、首を縦に振った。
「そうか」
 男は再び顔に笑みを宿した。
「その強い意志が俺を吸い寄せた。でも、例え今お前が『鬼』として目覚めたとしても、その力は血と同じように半分程度しかない。それでは返り討ちに遭うだろう」
 馬鹿にされているのか、相手にもされていないのか、それとも有無を言わさず私を殺しに来たのか。
 男の真意は未だにわからない。
「勘違いするなよ。俺は、お前の味方だと言っているんだが」
「・・・」
 何も信じる事ができない。
 父上も母上も、私に何もかもを隠して生きていたのだから、この男が今口にしている言葉を素直に受け止めることなど今の私に出来るはずがなかった。
「さあ、ではどう取り入ろうか。・・・そうだな、こういうのはどうだ、ここにさっきの鬼女の力の残滓が残っている。それを追えば、奴を討ってここに首を持ってきてやることもできるが・・・?」
「・・・!!!・・・」
「・・・ああ、これは誰にも譲りたくはないか? でも、お前にあの鬼女を討つだけの力はどう足掻いても手には入らない」
「・・・・・・」
 それはそうなのだろう。
 例え、どんなに私が強く望んだところで得ることは出来ない力。
 憎しみだけでは、何も出来ないという事・・・
「それを与える為に来た。お前を、魔道へ堕とす為に」
 魔道に堕とす? それが、この男に本当に出来るのか。
 確かに私は魔道に堕ちると誓った。
 しかし、この男に私を堕とすだけの力があるのかどうかも怪しい。
 そもそも魔道に堕ちる助けをする者といえば、魔性の者の筈だ。
 魔性ならば有無を言わさず私を操る事などわけもないのではないか。
 格の高い魔性は本性を露にはしないという。確かにそれはそうなのかもしれないとは思う。この男はただ立っているだけで気高く威圧し、目を瞠るほどの美貌を惜しげもなく曝していては、醜い魔性だなどと誰が思うだろうか。
 魔性は言葉巧みに取り入ると言うが、男はまだ幼い筈の私の信を得るのに苦労さえしている。
 最初に畏れさえ抱いた男だが、徐々に胡散臭さだけが露呈している気がする。
「・・・お前な・・・ ここで、有無を言わさずお前に寄生するのは簡単だが、最初からそれじゃつまらんだろ。それに、代償ナシで俺が与えるだけだなんてその方が怪しいだろうが」
 ・・・やはり代償を求めているのか。
 何も持たぬ私に、一体、何を・・・
「命。要らないんだろ。俺に譲れ。それで契約は成る」
「・・・」
「ああ、別に死ね、って言っているんじゃない。逆だ。永劫の闇に囚われる事を約束しろ、ということ。死をお前から奪うという形でだ」
「・・・」
「永劫の苦しみに在って憎しみを強く持つ心を食う者。それが俺だ。それだけの事を約束させるわけだから、それだけの力を与えてやる事は出来る。どうだ?」
 男の言葉に背筋が寒くなる。
 永遠に生きて憎しみを胸に抱いてその心を喰われる。
 それは一体どのような責め苦なのか。
 それでも・・・ それでも。
 鬼を滅ぼす力を得られるのなら。
 永劫の苦しみなど、苦しみのうちになど入らない。
「いい顔だ」
 男は再び私の頭を撫でた。
 私は、良く父上が私の頭を撫でてくれたことを、直に触れた父上の手が大きく優しかった事を不意に思い出して、その手を振り払った。
「おおっ。これは嫌か。失礼」
 男は含みのある笑みを宿して手を引っ込める。
 少し考えたあと、その手を自分の口許に持っていき、鋭い犬歯で指を傷つけた。
 じわりと傷口から血があふれ出す。
 その、血の滲み出る手を私のほうへ差し出してきた。
「契約をするつもりなら飲むといい。お前の意志に任せよう。無理強いはしない」
 男はそう言ってただ待った。
 血は少し滲む程度ではあったが、徐々に指を伝って指先からぱたりぱたりと地面に落ちる。
 乾いた土に落ちた血の雫は、派手に砕け散って広がった。
 躊躇わなかった。
 男の指に唇を寄せる。
 鉄臭い筈の血は、何の匂いもなく、ただ甘く口の中に広がった。
 見上げるほど高い身長で、上半身の裸身はとても逞しいのに、男の指は細く長く美しかった。
 溢れた血は全て喉を通り、小さな傷はすぐに血を滲ませなくなった。
「痛」
 歯を立てると男は小さく声を上げた。
 でも、甘噛みしただけでは傷口から血は出ては来ない。
 この渇きは何だ。
 血が・・・ 欲しい。
 この男の血が、もっと、欲しい・・・
「・・・そのくらいにしとけ。一応猛毒なんだぞ、これ」
 男は苦笑いして、私がまだ名残惜しく唇を離せずにいる指を引き剥がした。
「あんまり濃い毒を入れると、お前の自我さえ奪いかねないからな。お前が憎しみの心を見失わず、力を得るにはその程度の血で充分だろ」
 私が男を睨むともう一度苦笑いする。
「そんなに俺の血は美味かったのか・・・?」
 男の声に魅せられたかのように、私は素直に頷いていた。
「そうか・・・」
 そう答えた男の表情は良くわからなくて、私はどう答えてよいのかわからずただ立ち尽くす。
 男はしゃがみ込んで私と目の高さを同じにし、私の顎を少し持って上を向けさせ、抵抗する間もなく唇を唇で塞がれた。
 目を瞠り驚いて身動ぎすら出来ない私が漸く我に返り、抵抗しようとしたのを見計らったかのように男は唇を離した。
「俺は血を与えた。その代償にまず一つ戴いただけ。そう尖るなよ。これで契約は完了。お前の下に従う」
 男は、意外なほどにあっさりとそう言い放つ。
 永劫の苦しみを与えると言った筈なのに。
 こんなにも容易く、契約というのは成立するものなのか・・・?
 私の心を読んだのか、男はまた苦笑いした。
「俺の血は不死の妙薬なんだよ。そのかわり吸血の呪いも与える毒も含まれてはいるがな。上手く調整すれば、不死だけを与える事も出来る。だから、お前はもう既に不死を手に入れたのさ」
 不死を・・・
 永劫の苦しみを、背負わされた。
 それはあまりにも実感の伴わない簡単な儀式で終わってしまった。
 私はそれをまだ信じられずにいる。
「・・・鬼は精神の成長が早いって言うしな・・・ はいそうですかと簡単には信じられないだろうけど、痛い思いをさせて不死を証明させるのも忍びないからなぁ。信じてもらうしかないんだが」
 魔性のくせに『忍びない』と来た。
 どこまでが男の本気なのかがわからない。
「ほら」
 男は先ほど私に血を吸わせた傷口を唐突に見せた。
 しかし、そこにはもうあったはずの傷跡は残ってはいなかった。
 滴るほど血を溢れさせた傷だった。浅くはなかった筈なのに。
「これだけの治癒力が働く躰を、お前は得たということだよ。まだ怪しいか?」
 自分がこの力を得た、というのはまだ信じる事は出来なかったが、男の見せた不思議は確かに私を少しだけ納得させた。
「俺は水渡義成という。まあ、この時代での設定としての名前だが。お前は?」
 男は話を逸らすように聞いてきた。
 唐突な質問に、私は今まで名前さえ聞いていなかった事を思い出す。
 そして、あれから一言も口を利いていなかった事も。
「私は炸裂喇」
 口の中が干上がっていた筈なのに、先ほど男の血で潤した所為なのか、私の声はやけにはっきりと男に届いたようだった。
 男は少し驚いたように私を見た。
「男か。あんまり可愛らしい姿だから女かと思ってた」
「!・・・ さ、最初からそれであんな事・・・!!」
 悔しさで袖で唇を拭う。
「ははっ、嘘。最初から知ってたよ。お前、からかい甲斐があってホント可愛いな。意外と扱いやすいかも」
 男はカラカラと笑った。
 馬鹿にされているのか。
「やさら、か。鬼らしく雄雄しいいい名だ。その名を冠してもまだ、お前は鬼が憎いと言えるか」
「言える」
「よし。では色々始めようか。先ずは擬態を覚えないとな」
 男はまるで私がこれから復讐をしようとしていることなど意に介さないような能天気な素振りだった。
 その様子がやけに気に障る・・・
「感情の爆発で周りを見失うな。力を伴わない憎しみなど、ただの癇癪に過ぎない。実行する為に必要なものは沢山ある。下積みが肝心なんだよ」
 ・・・下積み・・・
「努力は惜しむな。どうせ不死だ。時間はたっぷりとあるさ・・・」
 男はそう言って哂う。
 この時初めて、私はこの男が真に恐ろしい者であるということを感じたような気がした。
「その気になりゃ鬼殲滅などわけはないんだが、それじゃつまらないしな。お前が自力で果たしてこそだ。その為には使えるものは何でも使え。例えば、人とかな・・・」
 男は思い出したように自分の着物を腰紐からたくし上げて羽織った。
 よく見ればその着物はとても上質で、里の者には見えなかった。
「人の中に紛れて人を煽動するのさ。人は鬼を恐怖の対象として見ている。煽れば巧く乗せられるだろう。弱いと思われている筈の『人』に討たれる『鬼』は、さぞ屈辱的だろう」
 男は淡々と言い放つ。
 それは、誇り高き鬼にとってはどれほどの屈辱か、私に量る事は出来はしないが、確かにそれは私が望む、最大の復讐になりうる事実でもあった。
 私が討つのではなくても、鬼にとって屈辱となるなら、何でもいい。
 しかし、それがそんなに簡単な策だとは思えなかった。
 煽動するには・・・ 人の世に、高い地位を持たねば出来ぬ事。
「お誂え向きに、ここらの領主は超がつくほどボンクラでな。金はあるんだが政に弱い。そして、俺は既にそこでそのボンクラの軍師をやっているんでね。好都合だろ?」
 話が急に飛躍した。
 私の否定が簡単に打ち消される。
 軍師だと・・・?
 私は人里に降りることさえなかったから、このあたりの領主の事は詳しくは知らないが、母上がよく武将の話を聞かせてくれたりしたお陰か、そのあたりのことはぼんやりと理解できた。
 軍師とは・・・
 軍師とは、軍を指揮する君主の戦略指揮を助ける職務を務める者。
 直接、君主を動かす事が出来る者。
「で、だ。俺はそのボンクラに仕えているわけではなく、その家臣の子、鎹(かすがい)家の子供の医師兼任でね。その子が、最近病で儚くなりかけているのさ。そこにお前は滑り込め」
「な・・・」
「その子は奇病に冒されていて、一年近く姿を俺以外の誰にも見られていない。あの命はもう尽きる。別にお前の良心が痛むわけでもないだろ」
「・・・」
「どうする。手っ取り早い方法が転がり込んできたわけだが」
「良いだろう。お前の策に乗る。ただ、私はまだ幼くて何も知らず愚かだ。お前が支えてくれるというなら・・・」
 魔の誘いだとは思った。
 だが、もう、一度乗った以上は引き返すことはできないのだということを思い出して、私は踏み込んではいけないはずの領域に足を踏み入れる。
 男は再び哂う。
「良い答えだ」

 義成の意図などわからなかった。
 だが、利用させてくれるならと、私はこの男に心を許した。
 お互いの信頼は、微妙な所に成立した。
 それでも、私は鬼に復讐する機会と力を与えてくれた魔性に、感謝していたのだ・・・

2008/12/07 up

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小声で編集後記のコーナー。
はーい、新作でーす。
いや、嘘でーす、コレ、かなり昔にワープロで打ち込んでたやつだったりします。
なので、出来上がっているので書き写すだけなんですが、ワープロ起動させるのに非常に苦労しました(苦笑)。
ワープロのくせにアプリケーションディスクが必要とは生意気な・・・
更に、自分の文章を万が一家族に見られたら困る!!と思っていたらしく、ストーリーの入ったフロッピーを開くにはパスワードが必要で、それがわかんなくて悪戦苦闘。
自分が考えたのに、何でパスわかんねーんだよ!!
30分苦戦して、フロッピーのタイトル見てたらその中に『パスワード』ってのがあって、それを開いたら全部のパスワードが入っていたので、自分に「隠している意味ねーじゃんよ!!」と、激しく突っ込みたくなりました・・・
で、またそのパスワードなんですが、このストーリーに登場するキャラクターの名前で入力されているんですが、炸裂喇、って一発で漢字変換できないわけですよ。
どうやって入力してたのよ、人名だぞ!!??
ってな訳で、フロッピーに『辞書』なるもんがあってそれを適用したのに変換できず。
うぉのれー!!!
兎に角、『炸裂』はサクレツで変換できるにせよ、『喇』って何て読むのよ!!
つー訳で、パソコン起動。
IMEパッドで書いてみて読み方発覚。ら、とか、らつ、とか読むのか・・・
そして入力したものの変換候補に出ず。
ぐおーーー!!
結局、部首から探し出して漸く読み込みしました・・・orz・・・
この作業に物凄い時間かかったのも良い思い出です(嘘だ)。
この話は完結まで辿り着いてはいないのですが、物語の佳境までは書き上げているので更新は若干他より早いと思います。
書き写すだけなんで。
でも今回アップした分の最後の方だけ少し不自然だったので変えました。
若干BL風味プラス!!
初期設定はBLじゃないんですが、気分しだいでエロも差し挟んで行こうと思います。
応援してくれると嬉しいです。